なぜ今「鼻から治療する薬」が増えているのか 経鼻製剤が切り開く新たなドラッグデリバリーの可能性

近年、「鼻から投与する薬」である経鼻製剤(けいびせいざい)の開発が世界的に加速している。日本でも2025年に抗てんかん薬のジアゼパム点鼻液、2026年にはアナフィラキシー補助治療薬のアドレナリン点鼻液が相次いで発売され、医療現場での存在感を高めている。

従来、薬の投与方法といえば飲み薬や注射薬が中心だった。しかし近年は、鼻粘膜を利用して薬を体内へ届ける技術が大きく進歩し、新たな治療プラットフォームとして注目を集めている。

なぜ今、経鼻製剤がここまで注目されているのだろうか。

目次

経鼻製剤市場が急成長している背景

鼻腔は呼吸器の一部であると同時に、非常に豊富な毛細血管が存在する特殊な組織でもある。このため薬剤を鼻粘膜へ投与すると、消化管を経由せずに速やかに全身へ吸収させることが可能となる。

実際に世界の経鼻ドラッグデリバリー市場は急速に拡大している。市場調査によると、2024年に約808億ドルだった市場規模は2029年には1180億ドルを超えると予測されている。

背景には、高齢化による慢性疾患患者の増加や、在宅医療ニーズの拡大に加え、患者自身が簡単に使用できる投与方法への需要の高まりがある。

特に救急医療や神経疾患領域では、「すぐに効く」「注射が不要」という特徴が大きなメリットとして評価されている。

開発を加速させた二つの技術革新

経鼻製剤研究の第一人者である徳島大学大学院医歯薬学研究部の金沢貴憲教授は、近年の急速な発展の背景として二つの技術革新を挙げている。

一つ目は吸収促進剤の進歩である。

鼻粘膜は本来、異物の侵入を防ぐための強力な防御機構を備えている。そのため薬剤を効率よく吸収させるには、粘膜透過性を高める吸収促進剤が必要となる。

しかし従来の吸収促進剤は粘膜障害など安全性の課題があり、実用化が難しかった。

近年は米Neurelis社の「Intravail」に代表される高性能な吸収促進技術が登場し、安全性と吸収効率を両立できるようになった。実際に日本で発売されたスピジア点鼻液やネフィー点鼻液にもこの技術が採用されている。

二つ目は投与デバイスの進化である。

鼻腔内は複雑な立体構造を持っており、薬剤を適切な部位へ届けることは容易ではない。近年はノズル設計や噴霧角度、粒子径の最適化が進み、目的部位へ高精度に薬剤を送達できるデバイスが開発されている。

こうした技術革新が、これまで困難だった経鼻製剤の実用化を後押しした。

経鼻製剤ならではのメリットとは

経鼻製剤が注目される理由は、患者にとって多くの利点があるためだ。

最大の特徴は、自己投与が容易である点にある。注射のような侵襲性がなく、医療従事者がいなくても使用できるため、救急時や在宅医療との相性が非常に良い。

また、薬剤は消化管や肝臓を経由しないため、初回通過効果を回避できる。これにより有効成分を効率よく体内へ届けることが可能となる。

さらに鼻粘膜は血流が豊富であるため吸収速度が速く、発作時や救急時など迅速な薬効発現が求められる場面に適している。

実際に低血糖発作治療薬のグルカゴン点鼻製剤「バクスミー」は、従来の注射製剤に代わる選択肢として広く普及しつつある。

一方で残る課題も

経鼻製剤には多くの利点がある一方で、克服すべき課題も存在する。

まず、一度に投与できる薬液量が限られているため、高用量投与には向いていない。また鼻腔には粘液や線毛運動による異物排除機構が存在するため、薬剤が短時間で排出されてしまう可能性もある。

さらに動物実験からヒトへの応用が難しい点も研究者を悩ませている。実験でよく使われるマウスやラットはヒトと鼻腔構造が大きく異なり、動物実験で得られた結果をそのまま臨床へ適用できない場合が少なくない。

そのため、新しい経鼻製剤の開発ではヒトでの有効性や安全性を慎重に評価する必要がある。

脳疾患治療への応用にも期待

経鼻製剤が最も期待されている領域の一つが中枢神経系疾患である。

通常、脳には血液脳関門(BBB)という強力な防御システムが存在し、多くの薬剤は脳内へ到達できない。しかし鼻腔の嗅神経周辺を利用することで、薬剤を直接脳へ届けられる可能性が指摘されている。

金沢教授らの研究グループは、核酸医薬を点鼻投与によってサルの脳内へ送達することに成功している。

将来的にはアルツハイマー病やパーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、希少神経疾患などに対する核酸医薬を、侵襲的な髄腔内注射ではなく点鼻薬として投与できる可能性がある。

もし実現すれば、患者負担を大幅に軽減しながら治療効果を維持できる画期的な治療法となるだろう。

「鼻から治療する時代」はさらに広がる

現在の経鼻製剤は、てんかん発作やアナフィラキシー、低血糖発作など救急領域での活用が中心となっている。しかし今後は精神疾患、中枢神経疾患、ホルモン製剤、さらには核酸医薬まで応用範囲が広がる可能性がある。

吸収促進技術と投与デバイスの進歩によって、かつては注射でしか投与できなかった薬剤を鼻から投与できる時代が現実味を帯びてきた。

経鼻製剤は単なる投与経路の一つではなく、医薬品開発そのものを変える可能性を秘めた技術として、今後ますます注目を集めそうだ。

参考文献

・日経バイオテク
・The Business Research Company. Nasal Drug Delivery Technology Global Market Report 2025
・Neurelis Inc.
・徳島大学大学院医歯薬学研究部 薬物治療学分野

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